伝記ちょいみせブログ

私の伝記の一部お見せしております

TRA innovator

おはようこんにちこんばんわ

伝記・プロフィールを書かせたら世界1!

おはっちーこと蜂谷航平です^ ^

 

 

 

★プロフィール紹介★

⭐︎瓶太さん

⭐︎TRA innovator という

和楽器の新しい表現に挑戦されてるチームの方のプロフィール!

ホンマルラジオ・奈良局のパーソナリティさんです^ ^

 

f:id:hachiyan:20180413113052j:image

 


何かを感じた方は

是非交流をもって下さい!!

 

facebook:https://m.facebook.com/shinji.hirata.1422?fref=nf

 

ラジオ「談・ディズム」:http://honmaru-radio.com/heita/

 

 

☆*:.。. 本文.。.:*☆

初めまして。
TRA innovator兼 ホンマルラジオ奈良局パーソナリティーの
瓶太です。


…初めましてにも関わらず、
大変しつれいしましたな数の「謎の肩書と名前」

上から順に
・TRA innovator
・ホンマルラジオ奈良局パーソナリティー
・瓶太


ひとつずつ解説させていただきたいと思います。
肩書だけでも覚えて帰ってください。笑


・TRA innovator

innovatorとは、【Traditional innovator】の略省。
ライノベーターと読みます。


ライノベーターのことを簡単に
本当に誰でもわかるように簡単に説明すると
和楽器の可能性を広げたい演奏者とそれの考えに賛同する人たちのこと。

 

・ホンマルラジオ奈良局パーソナリティー

ホンマルラジオとは、【本気・本音丸出しラジオ】の略称。

インターネットラジオ局の名称です。
そこのパーソナリティーとして
自身の番組「談ディズム」を持ち、ゲストをお迎えして

本気・本音のトークを行っています。
〖URLを貼ってください^^〗
・瓶太

笑福亭瓶太の略称。

笑福亭鶴瓶の27番弟子。

嘘です。笑
笑福亭一門とは何の関係性も持ちあわせていない私。


瓶太というのはあだ名です
瓶太と書いて"へいた”と読みます。


以上が、私の現在の情報。
より深く知りたいという方は、気軽にご連絡下さい。

ただあまり聞かないほうがいいと
私とは広く浅くの関係をおすすめいたします。


大変ディープでございます。
なんちゃって。


これ以下の文章が
私の現在にいたるまでの過去のお話にになります。


紆余曲折ありますので、退屈させませんよ。


1969年1月29日
京都生まれ、大阪の藤井寺8歳。引っ越し奈良の北葛城郡上牧町

父・母・姉の四人家族。


幼少期より
大人しく・引っ込み思案で人見知りだった私。


私の半生は、この引っ込み思案な性格との
付き合いであり克服がテーマとなっています。


幼稚園の時期の人見知りの男の子の宿命は
ガキ大将のターゲット。


男の子のやんちゃさは
幼ければ幼いほど純粋が故、ハードと相場は決まっており
よくいじめられていました。


小学校に進んだ時に出会ったのが
『野球』です。


その出会いは一年生の頃。
王・長嶋の時代


ポジションはファースト。
打順は2番か3番となかなかの優秀さ。


人見知りでしたが、運動神経に恵まれて
小学生の野球ライフを満喫しました。


が、中学野球の坊主にしなければいけない。
ことがどうしても受け入れることできずに


野球ライフは幕を下ろしました。


水泳部に入部。

理由は、髪型についての規制がないのが
サッカー部か水泳部しかなく、


当時は、ツッパリ・ヤンキー全盛期。
サッカー部にはヤンキーがたくさんいたので、


引っ込み思案の僕にはどうしても馴染めない環境だと。
消去法で水泳部を選びました。

 

上牧高校


高校は新設校で、プールがなかったので
バレーボール部に入部したのですが馬が合わずに退部。


プラプラするのはよろしくないと思い
吹奏学部へ転部いたしました。


スポーツとの関わりは無くなった。

かのように思えたのですが、
意外にもハード。


なかなかの運動量。
思い出すだけでも座り込みそうになります。


引っ込み思案のスポーツマンは
阪南大学に進学し、スイミングスクールのインストラクターのバイトを始めます。


爽やか!


今の私からは想像できないです。


且つ、顔も爽やかだったのです。
そしてモテ期の覚醒。


性格は引っ込み思案のままだったのですが、
ルックスの良さに救われました。


そして、就職。印刷会社で務めることに。


社会に出た時、自分の引っ込み思案な性格・人見知りを
克服しようとけついしました。


環境・立場が変われば
人は変わるもので、当然といえば当然なのですが


当時の私にとっては
「自分を変える」という大きな覚悟とパワーを要する決断


ビフォーアフター
今の私を見てくだされば分かるかと。。


逆にビフォーの方がイメージしにくいですかね?


周りの人付き合いのいい人のやり方を取り入れてみたり
できる範囲の努力は繰り返したのですが、


根本的な引っ込み思案が拭い去れないので
やはりどこか中途半端。


完全に明るくなったとは言い切れない状態でした。


しかし、転機は訪れました。


その転機とは香港への転勤。
ダジャレではございません。


英語も中国語も知らない私にとって
小手先のコミュニケーションが通じない環境は
僕の性格を改革するのに最適だったと今は思います。


もちろん今振り返るとですが(笑)
当時はヒッシのパッチ!!


つたない英語とパッションのみで相手に何か伝えようとするので
引っ込み思案などではいれませんでした。


特に、私を変える『きっかけ』となったのが


三日後にお金を振り込まなければ、
事務所の賃貸料が払えないので、中国のお客様からお金を集めてほしいと指示が。


香港から中国のクライアントに電話をしようとしたのですが、
当時中国の電話の回線はなかなか繋がらない。


何度も電話をし、
ようやく繋がった電話で、つたない中国語を必死に駆使し

至急、お金を用意してほしいこと
人民元でなく、香港ドルで用意して欲しいことを伝えました。


そして飛び乗りで広州へ
それがたまたま旧正月の日で
右も左も分からない中国が人でごった返しの恐怖に耐えながら
お客様のもとに到着しました


お金は用意してくださったのですが、
香港ドルへの両替が間に合わなかったそうで


人民元の価値が低い時代で
紙袋パンパンに中国元を詰め込み香港へ帰還


しようとしたのですが、


中国は貨幣の持ち出しを固く禁じていたので
列車の駅で職質されてしまいました。


日本人が紙袋にパンパンの中国元を入れて急いでいる。
そりぁ職質もしかたないですよね。

もしかすると慣れない中国でとんでもない顔をしていたのかも。

今でも職質されてもおかしくないオヤジですけどね。


そのときの私にとっては大きなロス。
早くお金を振り込まなければいけないのに


そこでも
なんちゃって英語と中国語で必死に
怪しものではないアピール

90分の説得の後に解放されました。


引っ込み思案がどうのこうの
人見知りがどうのこうの言っていられる状況ではありませんでした。


香港駅でも同様の職質を受けながらも
なんとか振り込みが間に合って


一命を取り留めました。

 


話さなければいけない状況に立ち
自分の言葉が通じない世界で追い込まれて私は


引っ込み思案を克服し
今の何事にも動じないメンタルが形成されました。


羞恥心を捨て、パッションで人とぶつかることを知り
自分の性格も変わったのですが、


人生はそんなに甘くはありません。


ここからは苦難の連続。
ひと呼吸してからスクロールを続けてください。


翌年の旧正月に日本に帰省。
そこで言われた一言がコチラ⇩⇩

「景気が悪くてそれどころではないから、香港に戻らなくていい。」

衝撃でした。

私の香港での努力はなんだったのか?


中国のお客様に大風呂敷を広げてしまったので、
会社は責任をとれなくなり、

わたしは一切の外出・連絡を禁じられ
飼い殺しの状態に。

それが半年も続きました。


彼女にも愛想をつかされ
人生のどん底を迎えたと思っていたのですが

 

ここはまだ底ではありませんでした。


なんだかしくじり先生風。笑


携帯電話が爆発的に普及したころに
携帯電話の説明書の印刷で大きな成果を上げ始め、


36歳の頃にヘッドハンティング
Y社という老舗の印刷会社に転就したのですが、


もちろんシークレットな案件。

もともといた会社の取引もあったので
絶対にばれてはいけない会社員24時として
違う会社の社員という偽りの肩書で勤め続けました。


何かと隠されがちな生活を送ります
その反動から今では全てオープン。さらけ出しています


四年。今まで一番身を粉にして、もはや素粒子のレベルまでにして
がむしゃらに働きました。


が、会社にリストラを言い渡されます。

 

手元に残ったのは
『人様より高い給料』と『余計なプライド』のみ。


その2点も、会社あってのもの
会社が倒産してしまっては何も残らなかったも同然。


空っぽになった私は

新たに入った印刷会社に入りますが
その会社も倒産してしまいます。


2度目の失業。


「サラリーマンなってまっぴらごめんだ。」

と自身で印刷会社を企業します。


貧乏でもいいゼロからのスタートだ。

何もかも失ったときに
私が持っていた余計ものも一緒に捨てることができました。


引っ込み思案・羞恥心・プライド・高い給料
最後の一つは手放さなさなくてもよかったか。


最初の1・2年はほんとに収入もなく
厳しいものでしたが

3年目にしてようやく少しづつ
軌道に乗り始めました。


そんな頃に高校の同級生の紹介で
『ホンマルラジオ』というインターネットラジオにゲスト出演し


その後も交流を深めます。


その交流は私にとある人生の「ヒント」をもたらしました。


それが自分の芯を作ること。


多種多様な人々が集う「ホンマルラジオ」にいても
まったくジャンルが違うにもかかわらず、


プロフェッショナルと呼ばれる人たちが持っている
「人間の芯」たるものは
ほとんど共通していることがわかりました。


もちろんプロフェッショナルたちには
それぞれの特別な技能があることは間違いありません。


その特別な技能を習得する過程の中で、その修練の繰り返しの中で、
技能だけでなく心も磨かれ太い幹のような「芯」が形成されるのです。


本物に触れて私は初めて本物とは何なのか?
人間の芯はいかに形成されるのか?
考えるように。。。


いかに形成されるのかは、まだ私にもはっきりと説明できません
私もまだ自分の芯を模索している最中。

 

私の番組「談・ディズム」にて
モノホンのプロフェッショナルから


人間のプロフェッショナルの「芯」を
学んでいる最中です。


この番組や私自身の生き方を通して
たくさんの人に発信しつつ私も学んでいこうと思います。

 

TRA innovator 瓶太。